いつかの雑感

普段無意識に抑圧している(見ないようにしている?)自分に対する負の感情が、続けざまに意識に浮かび上がってくるときがたまにあって、思考が下向きになってしまうときがある。最近ちょっとそういう時期が訪れている。まあたいてい放っておけばじきにおさまるのだが。

 

夜、高校の友人が出演している演劇を観る。世界観にはあまり入り込めなかったものの、演技・演出等も面白く、よくなされていて、楽しめた。友人の活躍する姿を見るのは嬉しいものである。

 

もう数回目の観劇であるが、観劇したあとはたいてい「言葉」について思索をめぐらすことが多い気がする。

それとはあんまり関係が無いけれど、以前何かで思い立ったときにざっと書いて下書きのままとどめておいた駄文の存在を思い出したので、後ろ向きな気分に乗せて投稿することにする。(勢いに任せたものなので、読みにくくまとまりがないが…)

 

作品世界に入り込めなかったり、登場人物に感情移入できなかったりするのも、「他者のことは結局のところ理解できないという諦観」に起因するのかもしれない。以下駄文。

 

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暫定的に相手にキャラを当てはめることで、その人とコミュニケーションがとりやすくなることがある。しかしながら、その暫定的な当てはめを忘れ、それが当該本人を表すように誤解してしまうと、相手を一人格としてみないで、単に自分の思考の枠組みの中に抑え込んでしまうおそれがある。言い換えれば、相手を見たいようにしか見ていないのではないか、という懸念である。

自分が相手に対して下している評価、レッテル貼りは、ひとまずコミュニケーションをとるために必要ではあるものの、あくまで暫定のもので、経時的に、さらには日によっても変化するものであるということを念頭に置いておくことが必要なのだろう。

他者は結局のところ、厳密な意味では、解釈不可能なのだから、自らの知覚・理解可能性を超えた存在である。けれども、交流するためには暫定解を与えなければならない。その当てはめと振り返りをうまく行いたいものである。

 

突き詰めて考えれば、相手が何をどう考えているかなどわかりようがないのだから、他愛もないことは別として、こちらの心情の吐露に対して、やたらと共感の言葉を寄せてくる人は個人的にあまり好ましく思っていない。何というか、こちらの思考心情を勝手に向こうの既存の知識、思考の枠組みの中に押し込もうとしているような感じがして、結局それは、他者の発言に共感しているように見せて、自己を投影した他者として(他者を鏡として)しか私を見ていないように感じられる。つまり私自身を見ていないように思われるのである。

 

もちろん会話自体を否定しているわけではない。互いにわからないからこそ、会話をし、理解を図ろうとする。わからないから、聞く。わかってもらいたいから、話す。より適した言葉を探りながら。

そのわかってもらえるようにより適した言葉を探るプロセス自体が、表面的な共感によって無効化されてしまう。

相手の話を理解しようとしつつも、まず明確化されていない混沌状態のものを一旦そのままの状態で自分の中に受け容れ、自らの判断を留保できるようにしたいものである。(億劫で、エネルギーのいることであり、なかなか難しいが)