睦月

今朝、帰省していた弟が仙台へ帰り、家の中も静かになってしまった。一方で、街に人が戻ってきて三が日の人の少なさ、過ごしやすさはいずこへ。

 

今年は今まで以上に変化に富んだ一年になりそう。まずは、今月を乗りきらねば。

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お世話になっていた洋食屋が今年いっぱいで店仕舞いし、37年の歴史に幕を下ろすことを知り、新年早々寂しさと無常感に浸っている。なんだか年明けから抹香臭い…。

訃報

本日未明、祖母が亡くなったとの知らせがあった。今度の正月に会う予定だったが、結局10月の従姉の結婚式で会ったのが最後になってしまった。

どうも自分はクリスマスと相性が悪いのか、2年前に高校の友人の訃報に接したのも、12/25だった(命日は12/24)。

 

自分にとってかけがえのない人たちと過ごせる時間を大切にしながら、旅立った人たちに恥じない(少なくとも後ろ指を指されることのない)ような生き方をしたい。(仮にできなかったとしても、そういう方向を向いていたい。)

高水三山

今日から山間部は雪かもという天気予報だったため、昨日奥多摩の高水三山(高水山、岩茸石山、惣岳山)に登りに行った。ルートは、軍畑(いくさばた)駅~高水山~岩茸石山~惣岳山御嶽駅(総距離:約9.4㎞/累積標高差:上り1047m・下り1053m)。

 

08:52軍畑駅を出発。

しばらく舗装された道を進む。30~40分ほど行くと舗装された道が終わり、砂防ダムの脇を抜けていく登山道に入る。天気もあまり良くなく、時折小雨が降るなかを進む。林の中を進むので雨自体はほとんど気にならないが、地面が濡れていて少々気を遣う。常福院の山門をくぐり、お参りした後、高水山山頂に10:12着。見事にガスで覆われていて展望なし。

小休止ののち岩茸石山へ向かう。急な下りののち稜線をしばらく歩き、急な上りを終えると10:37岩茸石山山頂着。本来であればここから都心方面の展望が望めるはずだが、見事に白一色。

 

幸い雨はやんでいたので、ここで少し食事をとる。待っていても展望は望めそうになかったので、そそくさと下山してしまうことにする。10:54山頂を出発し、山頂直下の急坂を下り惣岳山方面へ。雨はやんだとはいえ、岩や落ち葉が湿っており、滑らないように慎重に進む。途中、森林伐採作業が大規模に行われて、やや殺伐とした雰囲気の箇所もあった。11:22惣岳山に到着。木々に囲まれて展望はないが、青渭神社の奥宮があり、落ち着いた雰囲気。

11:34に惣岳山を出発し、標高差500mほどをひたすら下り、途中送電鉄塔の下をくぐったりしながら、12:25御嶽駅に到着。

 

当初の予定よりだいぶ早く着いたので、御嶽駅近くの玉川屋で日本酒とともにざるそばをいただく。

 

食後は御嶽渓谷沿いを歩いて一駅隣の沢井駅近くの澤乃井園へ。渓谷沿いはまだ先日の台風の影響が色濃く残っていた。

澤乃井きき酒処で日本酒を愉しんだのち沢井駅から家路に着いた。

言葉と表現

夜、Oさんの表現したいことを日本語で表現する手伝いをした。微妙なニュアンスを少しでも残して訳せるように、互いに少しずつ掘り下げて、言わんとしていることの近傍を行ったり来たりしながら、1時間くらいかけて暫定の訳に落ち着く。

 

間に英語という毛色の違う言語を挟むせいか、機微が失われる感じがして大変もどかしかった反面、僅かに表出した感情・思考の断片から適切な日本語を探していく作業は、普段使っている日本語を改めて見直す良い機会にもなり、大変面白かった。文法的には正しくてもなぜその表現に違和感を感じるのか、あるいは、ある多義の単語に対して通底にはどういうイメージを持っているのか、などの問いは、普段無意識に、感覚的に処理している事柄ゆえに、いざ説明しようとするとなかなかの難問である。「感覚的に違うから」という説明では学習者の役には立たないし、国語辞典を引いて説明しようと試みても、その説明自体が日本語の機微に支えられている面があり、難しい。

 

「気になる」という言い回しが今日の議論のなかで話題になったが、この言い回しは使われる文脈で意味が様々に変化することに気づかされた。「試験の結果が気になる」なら気がかり・心配であることを示し、「あの子のことが気になる」なら好意を持っていることを示し、「その態度は気になる」なら不快・不満を抱いていることを示し、「この木何の木、気になる木」なら関心・好奇心を抱いていることを示す。

広辞苑第6版によれば、「気になる」は「その事が気がかりである。気にかかる。」と説明されており、さらに「気がかり」は「気にかかること。心配。懸念。」、「気に掛かる」は「ある物事が心から離れず、心配である。」とそれぞれ説明されている。どちらかというとネガティブな方に重心が置かれており、この説明ではすべての使用例を説明できていないようにも思われる。(少なくとも「この木何の木、気になる木~」の歌から心配や懸念は感じられない。)

一話者の素人考えではあるが、おそらく「気になる」という表現は、「ある事象や対象がこころの一角を占めている状態」を示すのであり、その事象や対象が本人にとってどういう性質のものかによってその意味が変化しているのだと思われる、とOさんには説明した。

 

言葉によって世界の分節の仕方、分節の大きさが様々で難しいけれど、そんな言葉の世界のなかで、自分が表現したいことをぴたりと言い当てている(ように思われる)表現が見つかって、かつそれがごく自然な文としてすっと降りてくる時は、ものすごく気持ちが良いものである。微妙なニュアンスの違いへの感度を高めるためにも、日本語の語彙を増やしたいと思う。

年の瀬の足音

昨晩は今週末に日本を去るYaさんの送別を兼ね、研究室の面々連れだってインド料理屋へ。5階の学生部屋にいたとき、夜な夜なOさんと3人で話したことを思い出すなど。

 

今日は、自分の実験、打設の手伝い、別のキャンパスでの用事、研究室に戻り作業となかなか(密度的には)充実していた。バタバタした日だった分、帰ってからのビールが美味しい。

 

街にも年の瀬の雰囲気が僅かに漂い始めた。