言葉と表現

夜、Oさんの表現したいことを日本語で表現する手伝いをした。微妙なニュアンスを少しでも残して訳せるように、互いに少しずつ掘り下げて、言わんとしていることの近傍を行ったり来たりしながら、1時間くらいかけて暫定の訳に落ち着く。

 

間に英語という毛色の違う言語を挟むせいか、機微が失われる感じがして大変もどかしかった反面、僅かに表出した感情・思考の断片から適切な日本語を探していく作業は、普段使っている日本語を改めて見直す良い機会にもなり、大変面白かった。文法的には正しくてもなぜその表現に違和感を感じるのか、あるいは、ある多義の単語に対して通底にはどういうイメージを持っているのか、などの問いは、普段無意識に、感覚的に処理している事柄ゆえに、いざ説明しようとするとなかなかの難問である。「感覚的に違うから」という説明では学習者の役には立たないし、国語辞典を引いて説明しようと試みても、その説明自体が日本語の機微に支えられている面があり、難しい。

 

「気になる」という言い回しが今日の議論のなかで話題になったが、この言い回しは使われる文脈で意味が様々に変化することに気づかされた。「試験の結果が気になる」なら気がかり・心配であることを示し、「あの子のことが気になる」なら好意を持っていることを示し、「その態度は気になる」なら不快・不満を抱いていることを示し、「この木何の木、気になる木」なら関心・好奇心を抱いていることを示す。

広辞苑第6版によれば、「気になる」は「その事が気がかりである。気にかかる。」と説明されており、さらに「気がかり」は「気にかかること。心配。懸念。」、「気に掛かる」は「ある物事が心から離れず、心配である。」とそれぞれ説明されている。どちらかというとネガティブな方に重心が置かれており、この説明ではすべての使用例を説明できていないようにも思われる。(少なくとも「この木何の木、気になる木~」の歌から心配や懸念は感じられない。)

一話者の素人考えではあるが、おそらく「気になる」という表現は、「ある事象や対象がこころの一角を占めている状態」を示すのであり、その事象や対象が本人にとってどういう性質のものかによってその意味が変化しているのだと思われる、とOさんには説明した。

 

言葉によって世界の分節の仕方、分節の大きさが様々で難しいけれど、そんな言葉の世界のなかで、自分が表現したいことをぴたりと言い当てている(ように思われる)表現が見つかって、かつそれがごく自然な文としてすっと降りてくる時は、ものすごく気持ちが良いものである。微妙なニュアンスの違いへの感度を高めるためにも、日本語の語彙を増やしたいと思う。