進路選択雑感

研究室の先輩が近く出身高校の新入生に対して講演を行うとのことで、その発表練習として先輩の高校時代からの経歴や考え方を聞くことができ、その自主性・自律性、計画性に脱帽する。とくに、目標に対する逆算と、大目標の具体策への落とし込み、そして実行力。話を聞きながら、東京で高校生活を送ることがいかにアドバンテージになっていたかということに気づき、自分は至って呑気だったように思う。もう少し長期的な目線で物事を眺められていたら、また違っていたのかもしれない。

 

思い返せば、「なぜ勉強するのか」という問いは、もともと何かを知るということ自体は自分の世界が広がるようで好きだったこともあり、高校時代にはとくに気にしなかった気がする。(ただ、水泳はからきしダメだったので、なぜプールの授業を受けなければならないのかという問いは夏になるとたてていたが。)

 

高校生の頃はよく文理選択などの際に、「やりたいことを探そう」的な言説を聞きながら、そう言われても海のものとも山のものともつかない自分が将来どうなりたいかというのは、自分の適性も自分のなかでよくわかっていないのにみたいな思いもあった。

暫定的にやりたいことを決めて、ある程度のところまで行った後に、自分には適性がないということに気づいてしまうような選択をしてしまうことへの恐怖ゆえに、何者にもなれる可能性を秘めた、ある意味将来への可塑性に富んだ状態に留まっていたかった部分が大きかった気がする。進路の選択を先延ばしにできるという意味で、いまの大学選択をした部分も少なからずある。いま思えば、自分で決断することから逃れようとする、子供じみた態度であったのかもしれない。

 

書店の新書コーナーに行ったりして、書棚を漫然と眺めながらもタイトルに目がとまる、あるいはそれを手に取るというような、意図していないけれども行動してしまっているというような何気ない動作をするとき、その、無意識が表出する瞬間というのは自分の潜在的な志向性を表しているように思われることに、大学生になってから、あるときふと気づいた。それゆえに勉強だけでなく、高校時代にもっと本を読んでおけば、世界を広げておけば、という思いが少なからずある。進路選択のような「選択」は結局手持ちの知識のなかでしかできないものである以上(知らないものを選択することはできない)、選択の前に自分の視野を広げておくという意味でも、勉強・読書は重要なのかもしれない。

 

今日の晩酌は、パンクIPA甲州韮崎ピュアモルト